2013年10月24日
茂来山~信州百名山~
毎月2回、にヤマケイから届くメールマガジン
昨日、興味ある山が紹介されていた。
今度実家に帰省した際に、登ってみたくなりました
また、
旧大日向村の悲劇、こんな悲しい事件があったとは知りませんでした・・・
▲茂来山(もらいさん) 1,718m
小諸から小海方面に向かうときに左手に見える、金字塔のような形のよい山。
麓の半日村は太平洋戦争のとき、国策に従って旧満州のソ連国境に近い所に分村した悲劇の村。
http://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=18130
↓茂来山へ登る
http://www.yamakei-online.com/yamanavi/route_detail.php?id=10898

<茂来山**信州百名山>説明
千曲川をはさんだ東に、西の八ヶ岳と対峙する信州百名山のひとつで佐久地方の名峰。
東西南北になだらかな尾根を伸ばした秀麗な姿で人を引きつける。1700メートル台の山とは思えない見事さで地元民の信仰も厚く、雨乞い登山、学校登山、元旦登山などで愛されている。じっさい地元民が「もらいさん」と呼ぶときの〝さん〟は、まるで親しい人を呼ぶときのニュアンスがあり「もらいやま」ではしっくりこない。
昭和57年、皇太子殿下が浩宮殿下のときに登頂され、その記念碑が頂上におかれているが、おそらく殿下も頂上の大パノラマをさぞ堪能されたことだろう。佐久平の標高が約1000メートルだから、700メートルを越す標高差に加え、南佐久郡佐久穂町と小海町の分水嶺でもあり周囲に高い山がなく開けているのも大展望の要因だろう。
この山には、かつて良質な磁鉄鉱石が採掘された鉱山があった。北山ろくを走っている旧武州街道(現国道299号線)は、毎日十石(ドラム缶で約9本)の佐久の米が上州や武州へ運ばれたり、秩父困民党が流れこんできた街道でもあった。
そこにはまた、全国初の集団分村移民満豪開拓団を生んだ旧大日向村の悲劇が眠っていることも忘れてはなるまい。
昨日、興味ある山が紹介されていた。
今度実家に帰省した際に、登ってみたくなりました

また、
旧大日向村の悲劇、こんな悲しい事件があったとは知りませんでした・・・
▲茂来山(もらいさん) 1,718m
小諸から小海方面に向かうときに左手に見える、金字塔のような形のよい山。
麓の半日村は太平洋戦争のとき、国策に従って旧満州のソ連国境に近い所に分村した悲劇の村。
http://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=18130
↓茂来山へ登る
http://www.yamakei-online.com/yamanavi/route_detail.php?id=10898

<茂来山**信州百名山>説明
千曲川をはさんだ東に、西の八ヶ岳と対峙する信州百名山のひとつで佐久地方の名峰。
東西南北になだらかな尾根を伸ばした秀麗な姿で人を引きつける。1700メートル台の山とは思えない見事さで地元民の信仰も厚く、雨乞い登山、学校登山、元旦登山などで愛されている。じっさい地元民が「もらいさん」と呼ぶときの〝さん〟は、まるで親しい人を呼ぶときのニュアンスがあり「もらいやま」ではしっくりこない。
昭和57年、皇太子殿下が浩宮殿下のときに登頂され、その記念碑が頂上におかれているが、おそらく殿下も頂上の大パノラマをさぞ堪能されたことだろう。佐久平の標高が約1000メートルだから、700メートルを越す標高差に加え、南佐久郡佐久穂町と小海町の分水嶺でもあり周囲に高い山がなく開けているのも大展望の要因だろう。
この山には、かつて良質な磁鉄鉱石が採掘された鉱山があった。北山ろくを走っている旧武州街道(現国道299号線)は、毎日十石(ドラム缶で約9本)の佐久の米が上州や武州へ運ばれたり、秩父困民党が流れこんできた街道でもあった。
そこにはまた、全国初の集団分村移民満豪開拓団を生んだ旧大日向村の悲劇が眠っていることも忘れてはなるまい。

霧久保沢コースの途中には、日本「森の巨人たち百選」に選ばれたトチノキ・コブ太郎に出会うことができます。(樹高:22m 幹周:531㎝ 樹齢:推定250年)